8. 1 面会報告
日 時: 2007年8月1日 10:35~10:55
場 所: 東京拘置所 10階 第五面会室
面会者: 秀子、山崎
本日の面会に際し、山崎が7月28日に速達で手紙を発する。 その手紙に同封して、インターネットで入手した石原裕次郎の写真3枚をパウチフィルム加工したものを送っていた。
10:00に面会申込、面会番号10階37番、 待っている間に、ズボン・シャツの差し入れを済ます。 しばらくすると、入浴中とのアナウンス有り。10時30分過ぎ、面会のアナウンス。
秀子:やぁ元気
山崎:こんにちは
・服装は、灰色のV首半袖Tシャツ、その下に白のノースリーブ、長ズボンの紺色トレーナーにサンダル履き
・顔色は薄いピンク色がかかっていて色つや良く、顔はふっくらとしていた。風呂あがりのせいか、 髭もきれいに剃られ、髪の毛にはほとんど白髪が見られない。
・見た目には、年齢より若く見える
秀子:風呂 入ってたってぇ?
巌: あぁ 風呂だった
秀子:週に何回ぐらい?
巌: ここんとこ、毎日だよ、シャワーの時もあるし、今日は風呂だった。
秀子: シャツ 入っていたぁ?
巌: 入ってたよ
秀子:今日は長袖のシャツと半ズボン、夏用の半ズボンを入れたから。半ズボンはチャックで長さを短くすることが出来るから。
巌: そうか、 いろんなものが入ると、入ったもので儀式をやらにゃいけない。
秀子:いらんもんは宅下げしてよ。
巌: ここは宅下げの例はないんだ。 入ったもんで儀式をやらにゃあならないようになっている。国家権力の独裁者がそうすることにしている。 宅下げ出来りゃするけれど。
秀子:宅下げ出来るときはちゃんと言いなよ。
山崎: 石原裕次郎の写真、入りましたか?
巌: ・・・・?
山崎: 石原裕次郎の写真と手紙を送ったんですが・・・
巌:写真は知らないがボクシングの本はあったな・・・・・ここは何でも消されてしまうから分かりゃせんのだ。
山崎:ボクシングの本が入ったんですか?
巌:あぁー 4冊入った・・・・そういゃー、小林旭がどうのとかという手紙があったな。
山崎: 写真は無かったですか・・・石原裕次郎の。
巌: 無かったな
山崎:本は読んでいますか。 メガネを使っていますか。 必要ならもう一つ入れましょうか?
巌:読んでいるよ。 字を見ると目からツンボとオシメとメクラが入ってきて、字がたってきて、読めなくなるんだ。 これまでたくさん入ってきてた。バイキンもいっぱい入ってきていた。・・・最近はなくなったなぁ。
山崎: 食事はどうですか?少ないですか?
巌: 少ないな、ここは粗食で出すことになっている。 自由に出ていくためにはしっかり食べなきゃ行けない。 そう決められているんだ。
秀子: お菓子は食べられるようになたぁ?
巌: まだ、なってない。
秀子:薬は何か飲んでいるの?
巌:錠剤がある。言うなれば栄養剤だな。 栄養が取りゃせんのだよ。腹の肉がたるんでひどいもんだ。 血で生きていないんだよ。栄養を摂ると血になるんだけれど、今は食べたものが空気になって何にもなりゃせんのだよ。
・会話の際、秀子さんや私の方に顔を向け、淡々と話す。 腹の肉がたるんでいる話の時には、自らおなかの方を指さす。
山崎:そうですか、 少し肩を見せてくれませんか? 右袖をまくって。 この前は“肩が冷えて”というようなことを言ってたでしょう?
巌:もう、それはなくなった。
山崎: 右の肩を見せてくれませんか?
巌: いいよ、と言いながら
・Tシャツの袖をめくって見せてくれる。 肩付け根より約5cm下方に幅5mm 長さ20mmぐらいの傷跡(表面が白くのっぺりしている)が確認出来た。・・・・この傷跡は、裁判では専務との格闘の際、出来たと認定されているが、袴田さんは消火活動の際けがをしたと主張。事実、袴田さんのパジャマの右肩部分がカギ裂きがある。
・ 事件から1年2ヶ月後に工場味噌タンクから発見された5点の衣類の長袖スポーツシャツには1箇所の穴、 下着である半袖シャツには二箇所の穴の穴が空いている。 体の傷はひとつなのに二種類の衣類に傷があるということは、どちらかが偽物である。 最大の争点のひとつである。
山崎:大丈夫ですね。 左の肩もお願いします。
・ 右肩同様見せてくれる。 当然、左肩には傷跡はない。
山崎:ありがとうございました。ところで、袴田さん、若い頃はにはどんなことをしていましたか。
巌: (少し間をおいて) 若い頃? 子供の時には勉強だろう?
山崎: 子供の頃の話を聞かせて下さい
巌: 神の申し子として中瀬で生まれて、学習院から名前をもらった。 機械で作られて、何千、何百の袴田巌がいる。 袴田巌を知っていると言うが、それはばい菌がついてない袴田巌だ。中瀬にいた袴田巌は若いとき、成長して、勉強して 今は自分の家は日銀だから何も思わらりゃせんのだ。
(このように意味の通らない話をし出すと、発する言葉が長くなり、とても早口になるになる)
山崎:その後、30歳頃は仕事はどんなことをしていましたか。
(自動車工場で働いたとか、こがね味噌に勤めていたとか、あるいはボクシングの話を自分から言ってくれないだろうかと思って)
巌: 風呂は毎日、運動は毎日、土日は独裁者達が、世界は新時代に入って、100階建て以上のホテルの社長を務め、新決定にしたがってボクシングをやっていた。 フライ級からヘビー級に朝から出て1億円のギャラで、100戦100勝100KO、1000戦1000勝1000KO、 その後は私人として童謡とか歌謡曲は自分が作って歌って、今はハワイに名前があって住んでいる。
山崎:浜松国体はどうでしたか。
巌: 浜松国体ではバンタム級、世界のアマチュアがフライ級、フェザー級、バンタム級、ヘビー級・・・・(階級がスラスラ出てくる)
刑務官:もう終わりにして下さい
巌:そうかね
秀子:体に気を付けてね。
山崎:また来ますから。
刑務官に促されてすたすたと出ていく、足取りはしっかりしているが歩幅は狭く姿勢は前屈み、70歳相当の後ろ姿である。(終わり)
なお、帰りに差し入れ窓口で確認したところ、パウチフィルム加工したものは本人へは渡らない(没収される)とのことであったので、 同じ写真の未加工のものを差し入れてきた。
(註)
「石原裕次郎」・・・若い人たちには縁が無い名前だと思うが、いわゆる裕次郎世代(現在60歳から70歳前後の人たち)の人にとってはまさに“永遠のスタア”である。 袴田巌さんもその世代である。 巌さんは1936年3月10日生まれ、石原裕次郎は1934年12月28日生まれ、2学年違いである。
このブログをご覧になっている方には、面会の記録の中に、石原裕次郎や小林旭の名前がどうして出てきているのか、不思議に思っている方も多いと思う。
巌さんは、いわゆる日活黄金期を支えた、小林旭や石原裕次郎の大ファンだったのである。(お姉さんによると、小林旭ファンだったようである)。
事件現場の清水市(現在は静岡市清水区)は港町である。 石原裕次郎や小林旭のアクション映画のロケに清水の波止場も利用されていた話も聞く。
今年は、石原裕次郎 没後20年、 雑誌などでの特集も多い。 巌さんと私の会話には、そんな袴田さんの若い頃の思い出を語ってもらえないかと言う思いがあることを理解して頂ければ幸いである。 (事務局長:山崎 俊樹)